1904年、舞台化粧道具の行商から三条御幸町下ルに店を構えた「國枝商店」。
舞台化粧の紅や白粉などの商いは、花街の伝統や歌舞伎などの芸能も盛んな京都の土地柄から広く愛され、やがて京都一の繁華街、新京極に店舗を移転しました。
大正初期には口腔の衛生が注目され始め、初代は歯ブラシの商いに力を入れました。
その頃、歯ブラシは「楊枝(ようじ)」と呼ばれていたことから、人々に「楊枝(ようじ)屋さん」と親しまれ、この愛称を新たな店名としました。
1920年代には、京都らしいきっかけから生まれた「あぶらとり紙」が大好評を博し、「よーじや」の看板商品となっていきます。
そして、その人気とともに「よーじや」の名も徐々に全国に広まります。
明治から大正、昭和から平成、令和と時代が移り行く中、およそ100年ぶりに新スタイルのあぶらとり紙を販売するなど、よりお客さまの日常を彩ることのできる肌ケアブランドとして、今後もチャレンジを続けてまいります。
芸事が盛んな京都の町で、舞台化粧道具を販売するお店として「よーじや」は産声を上げました。店名の由来ともなった歯ブラシ専門店を経て、オリジナル商品から受注品まで、広く大衆に親しまれる商いを行いました。
初代 國枝茂夫が奉公先より独立し、舞台化粧道具の商いを始める。大八車に商品を積んで売り歩き、得意先を回った。その後、1904年(明治37年)8月に「國枝商店」(三条御幸町下ル)を創業。
本店を新京極(現在の場所)へ移転。口腔衛生に注目が集まる中、需要の高まりをいち早く察知した初代茂夫は、翌年新京極に歯ブラシ専門店を開業した。
出入りの撮影所にて、映画関係者から相談を受け、あぶらとり紙を考案。当時は、現在の4倍の大きさだったが、手の平サイズの手帳型に改良して1冊5銭で売り出したところ、たちまち評判となる。
初代 茂夫の後を継ぎ2代目となった國枝信夫自らがピエロをモチーフにしたロゴマークを描き、商品や看板のデザイン、広告に使用。新事業として、資生堂、小林合名(コーセー前身)や三善などのメーカーと取り引きを開始する。当時は受注生産がよーじやの主力事業であった。
モチーフは、2代目 信夫が手描きした手鏡。女性の身だしなみに欠かせない手鏡に、美しい京女性が映り込んだ印象的なデザインで、その後「よーじやの顔」として広く浸透する。
四条花見小路という祇園の玄関口に、2号店を構える。2代目 信夫が祇園店を、妻・月代が本店を切り盛りする。シャンデリアやアール・デコ風のしゃれた装飾の内装で、若者の憧れを集めた。化粧品をはじめ舶来のコンパクトや香水、ハンカチ、バッグなどを販売。
水上勉が「主婦の友」誌上にて、小説『紅花物語』を発表。よーじやの京紅を作る京紅職人・徳田安太郎氏への取材に基づき、京紅の魅力を伝える物語となっている。1983年(昭和58年)、劇団俳優座で舞台化。2006年(平成18年)には新橋演舞場にて再演された。
4代目 國枝泰博による開発部門の設立は、よーじやにとって新たな時代の幕開けといえ、通信販売や海外展開など時代に先駆けたビジネスモデルへの果敢な挑戦のきっかけとなりました。セレクトショップからブランドショップへの転換を果たし、現在に続くよーじやの基盤を創りあげました。
2代目 信夫の急逝により、妻である月代が3代目社長となる。同年、息子である泰博が4代目として舵を取り、父信夫の成しえなかった化粧品メーカーとしてのブランドの復活を目指し「開発部門」を設立。新たな商品展開や販売経路の拡大、ものづくり、ブランディングの確立に乗り出した。
"よーじやブランド”の確立を見据え、まずは百貨店への催事出店を視野に入れる。戦争などで中断していたオリジナル商品の開発・販売を再スタート。4代目泰博自らものづくりを手掛け、記念すべき第1号商品は、ロゴマークにちなんだ「あわせ鏡」。
百貨店でのイベント販売を開始する。記念すべき最初の出店は阪急うめだ本店で、4代目泰博自ら売場に立った。
以前より電話やFAXによる遠方からの注文を受けていたが、全国からの発送依頼が高まってきたことを受けて、イベントにお越しくださったお客様の継続利用への対応を目的として、本格的に通信販売をスタート。当時は通信販売自体がほとんど浸透していない中、カタログ制作、運用システムの創設および整理、梱包から発送までを一貫して行う、新しいビジネスモデルへの挑戦だった。
よーじやオリジナル商品のみを取り扱う初の店舗として三条店(三条富小路:2018年寺町三条に移転)と先斗町店(先斗町四条上ル:2008年5月閉店)を同時オープン。4代目泰博が設立した開発部門で手掛けてきたものが形になった最初の店舗であり、現在のよーじやにつながる新たな第一歩となった。
公式ホームページを開設し、最新の情報提供を行うとともに、インターネットによる通信販売を開始。お客様からの声を頂戴すべく問い合わせ窓口も設置する。
1998年、1999年と「ロサンゼルス NISEI WEEK JAPAN FESTIVAL」に参加。その他ロサンゼルスコンベンションセンターで行われた「JAPAN EXPO」に参加したり、ファッションアイランド、ウエストサイドパビリオンなどでのカート販売も行ったりと、精力的に海外でのイベントプロモーションを行う。
今後のグローバル展開を見据え、海外顧客の視点を取り入れるべく、初の海外路面店舗として、YOJIYA USA ロサンゼルス トーランス店(2005年7月閉店)をオープン。その後、当時のリージェントホテル・サマリン・ラスベガスのリージェントスパとの契約や、ハワイのアラモアナショッピングセンターにも参入。全米メールオーダーを確立するなどアメリカでの展開を広げた。
初のホテル内店舗となる、京都ホテル店(現在の京都ホテルオークラ店)がオープンする。
2000年代に入ってからは、今後100年を見据えた事業改革、”2000年プロジェクト”をスタート。化粧品の新展開やカフェ、エステなど、事業の幅を拡げ様々なことに挑戦してきました。私達は今後も成長を止めることなく、お客様に愛されるよーじやを目指していきます。
初の空港免税店である、関西空港DFS南先端店よーじやコーナー(2018年8月閉店)をオープン。当初は75cm角の什器1つからスタートし、海外限定バージョンのあぶらとり紙の販売を行う。その後、成田空港・羽田空港にも店舗を構える。
基礎化粧品「うるおいぷらす」発売。前年に伊勢丹新宿本店でサンプリングを行ったところ反響が大きく、翌2001年、阪急うめだ本店1階にて発売プロモーションイベントを実施。本格的なスキンケアラインとして化粧品の新展開を開始する。それに伴い、先斗町店を化粧品専門店としてリニューアルした。
祇園店2階にて、刷毛や筆などの伝統化粧道具をそろえた「よーじや 粧具」を発売。花街や舞台・映画俳優の方々からのご要望に応えるだけでなく、古き良き伝統化粧文化を未来に伝えていく想いをのせた商品開発となる。2003年(平成15年)には日本古来の伝統色を用いた口紅やフェイスカラーも登場し、日本文化の美しさを日常の化粧品から取り入れていただく試みを始めた。
初のよーじやカフェを、哲学の道沿いにオープン。ショップが混雑している際、お待ちいただく間にもおもてなしができるようにと開設した。
初の百貨店内店舗となる化粧品専門店を、大丸京都店1階の化粧品売場に構える。
11月、台湾にて初の開催となる国際旅行博に出展。看板商品「あぶらとり紙」を中心によーじや商品のアピールを行い、台湾での認知度を高めた。
フランス パリ「ボン・マルシェ」にて8月から「JAPAN EXPO」に出展。その後12月まで期間限定ショップを展開した。
祇園店2階を、コスメフロアとしてリニューアル。2017年(平成29年)には、エステブースを設置。
よーじや商品を使用したエステサービスをスタート。商品提供に留まらない、美容サポートの拡充に踏み出した。
世界的なエステティックの教育機関であるCIDESCOの世界会議(第58回)が京都で開催された。そこで、「あぶらとり紙は唯一のデイリーエステである」というプレゼンテーション及び、販売・展示を行った。日本の身だしなみ文化、美意識を伝えると共に、あぶらとり紙がお化粧直しだけでなく、スキンケアアイテムとしてのニーズを高めていることを世界へ発信する機会となる。
よーじやカフェのオリジナルロゴマークが誕生。オリジナルグッズ展開も始まる。
手鏡をモチーフとするロゴマークをアレンジした、よーじやコスメティックの新たなロゴマークが誕生。
構想から実現まで1年半以上を費やした自動販売機を羽田空港第2ターミナル店に設置する。「よーじや」のロゴマークである顔がアートされたカプチーノの提供をスタート。
中国市場開拓のターゲットウェイである上海で、10月から3月まで、京都の特産品や京都企業の製品等の展示・販売拠点となる「京都アンテナショップ」に参加、出展した。
東京初の旗艦店として、東京・渋谷ヒカリエShinQs(2017年閉店)NIPPONビューティエリアにショップ&カフェを構える。舞台化粧品からスタートしたブランドの伝統と歴史に加えて、京都という地で培われてきた上質のサービス精神を土台とする美容とカフェが融合した新スタイルを提案する店舗となった。
アジアへのアプローチとして、10月に台湾「太平洋SOGO」での「日本商品展」に参加し、期間限定ショップをオープン。その後、2015年(平成27年)には「新光三越」「太平洋SOGO」でも出店し、2017年(平成29年)の「太平洋SOGO」、2018年(平成30年)の「遠東SOGO」高雄「漢神巨蛋購物廣場」と、さらなる躍進を続けている。
5月、「バンコク伊勢丹」での「ジャパンスタイルフェア」のプロモーションに期間限定ショップとして参加、出展した。
奇しくも、コロナ禍で世界中が騒然とする中、4代目泰博の長男・昂へと代替わりがなされた。店舗の一時休業中は通信販売により一層注力すると共に、「労働環境の整備・改善」を掲げ、新たなステージへの進出に向けた組織改革に乗り出す。既存のものづくり精神と100余年にわたって受け継がれてきた伝統を大切にしながら、「ひと」を第一としたおもてなしの提供に力を注ぐ。